はじめにヒトを含む多細胞生物の腸管には多数の共生微生物が定着しており,それらは消化・吸収に留まらず,免疫応答や神経系機能,さらには寿命に至るまで宿主の生理機能に幅広く影響を及ぼすことが知られている 1).腸内細菌と宿主との共生関係を解明することは近年の生命科学における主要なテーマの一つであり,疾患予防や健康寿命の延伸という応用的側面からも注目されている.腸内細菌研究の大部分は哺乳類モデルに基づいて進められてきたが,腸内細菌叢の複雑さは研究を制限する要因となっている.哺乳類の腸内細菌は数百〜千種類以上に及び,種間・個体間での構成の多様性も高い.さらに,これらの動物における寿命実験は年単位を要するため,実験的な反復や網羅的検証は困難である.また,微生物叢の構成を完全に制御した条件で加齢現象を追跡するためには特殊な飼育環境を必要とし,コストの面からも大きな課題が存在する.このような背景のもと,モデル生物のショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)は,腸内細菌研究における新たなプラットフォームとして注目を集めている 2).ショウジョウバエは世代時間が短く,寿命も約 2 ヶ月と短いため,加齢に伴う生理変化の解析に非常に適している.加えて,遺伝学的ツールが充実しており,遺伝子発現の空間的・時間的制御が可能である.腸内細菌の構成に関しても,実験室環境下では数種類に限定されており,代表的な常在菌として Acetobacter 属や Lactobacillus 属の細菌が知られている 3, 4).これにより,個々の細菌種の生理作用を遺伝学的に検証することが可能となる.ショウジョウバエの腸内細菌は,宿主の栄養代謝,免疫,行動,発生,寿命などに影響を与えることが報告されており 5–8),特に腸内細菌の種類や組成が加齢に伴って変化し,その変化が寿命や腸管恒常性に影響を及ぼすという知見が蓄積されつつある.しかしながら,これらの研究の多くは,「無菌状態」の確立や維持においてさまざまな制約を抱えていた.また,ショウジョウバエを用いた腸内細菌研究においては,実験間で矛盾する結果が頻繁に報告されているという問題もある 9).たとえば,ある研究では無菌化により寿命が延びるとされている一方で,別の研究では寿命が短縮すると報告されている.また,同じ細菌種の定着が宿主の代謝を促進するという報告と,逆に抑制するという報告が併存している.これらの矛盾は,実験系の設計や操作方法の違い,宿主の遺伝的背景,餌の組成,germ-free と称するハエに残存する微生物の程度といった複数の要因に起因する可能性がある.また,腸内細菌の構成が飼育環境や摂取餌によって大きく影響を受けることが知られており 10),環境的・技術的変数の影響を十分に制御しないまま得られた結果を一般化することの危うさが指摘されている.従来,ショウジョウバエを無菌化するためには,胚を次亜塩素酸処理によって滅菌し,無菌環境下で飼育する方法が用いられてきた 11).しかし,この方法では幼虫期の発育や成虫の繁殖に悪影響を与えることがあり,また完全な無菌状態を長期間維持することは困難であった.さらには,抗生物質を用いた微生物除去法も併用されることがあるが,抗生物質自体が宿主の代謝や行動に影響を及ぼすため,結果の解釈を複雑にする要因となっていた 12).実際に,同じ「無菌ハエ」と称されるハエであっても,研究室間でその実態が異なることが近年のメタ解析的研究からも指摘されている 13).また,腸内細菌研究における再現性の問題は,飼育餌の組成や栄養バランス,エサの滅菌方法,使用している酵母抽出物のロット差異などにも起因しており,これらの変動がハエの代謝や寿命に影響を与えることも報告されている 14, 15).さらに,無菌状態を評価するための検査方法(培養ベースか PCR ベースか,何日齢で検査するか等)にもばらつきがあり,「無菌」の定義が実験系によって異なっている― 227 ―
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