東京生化学研究会 60周年記念誌
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長野専務理事(インタビューアー)本日は、大変お忙しいところインタビューに応じて頂きまして、誠にありがとうございます。 心より感謝申し上げます。 中外製薬にとって2002年のアライアンス開始は、極めて大きな出来事であったと思います。 用意周到な準備があったことと推察しておりますが、本日は当時を振り返って頂き、そこに至るまでの経緯について忌憚のないお話しをお願いできますでしょうか。 どうぞよろしくお願い申し上げます。●永山理事長 中外製薬は2002年にロシュとアライアンスを開始し、そこから8年後の2010年から2020年までの10年間は、当初アライアンスで目指したことが一気に実現して、会社として非常に大きく成長した時期でした。 アライアンスに関しては、2000年からロシュとの話し合いを始めています。 その前から私が考えていたのは、二十一世紀にこの中外製薬はどうなっているのだろうか、果たして研究開発型の強い企業として存続・繁栄できているのだろうか、ということでした。 シミュレーションすると非常に楽観的にとらえれば大丈夫だろうと、しかし悲観的に見るとかなり厳しいこともあり得るという見立てもありました。 新薬メーカーというのは研究開発の成果が出るか出ないかで、会社の存続がほとんど決まってしまう業態なのです。 二十一世紀を展望して、厳しく考えると中外製薬の将来というのは大変難しいことになると考えたのです。長野専務理事研究開発型企業の宿命として、新薬開発の成功・不成功が会社の浮沈に直結しているという事ですね。●永山理事長 新薬の研究開発というのは失敗も非常に多く、極めてリスクが高い世界なわけです。 当時、世界では抗体を含むバイオ医薬品の開発が増え始めていて、創薬の競争は熾烈化し、研究開発費は高騰していました。 海外では製薬企業の吸収合併が進み、巨額の研究開発予算が組まれるようになっていきました。 一方で日本では、産業の再編成があまり進まず、研究開発予算面での海外大手との格差が広がりました。 私は1998年当時、こうした環境の中で、バイオ創薬に注力している中外製薬が本当にこのままで生き残っていけるのかなという懸念を持っていました。長野専務理事バイオに関して、以前から中外製薬は強みとしていたのでしょうか。●永山理事長 中外製薬は1975年頃からG-CSFの研究を始め、基礎面では実験動物中央研究所や上山先生、玉置先生、垣生先生、長田先生、臨床面では平嶋先生、浅野先生、大沢先生らと共同で進めていました。 中外製薬はバイオ医薬品の製造経験がなく、培養や精製の製造設備を持っていませんでした。 分子量が数万のバイオ医薬品の生産体制確立に向けて、EPOという赤血球増殖因子をアメリカのベンチャーから導入して、G-CSFとEPOをセットでやるようになったのです。 2つ揃ったので、工場の稼働率を適正な水準にできる目途が立ちました。001960-2020 TBRF-60th CHAAO-10th030

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